【三陸・雄勝 「海の幸トレイルランニング」】
2013年の4月、ラン仲間のサンディ近藤さんがFBで呟いていたのがきっかけで、宮城県石巻市雄勝でトレイルラン大会が開かれると知った。
スケジュールはOK。もちろんすぐにエントリーした。
三陸・雄勝 「海の幸トレイルランニング」 http://uminosachirun.jp/
雄勝湾をスタートして、硯上山、水沼山、上品山とピークを踏み、どこで折り返してもよいという、最長35kmのユニークなトレラン大会。
春の銀鮭、秋のホタテと2ステージあり、前夜祭ではそれぞれを中心とした海の幸がふんだんに味わえるというもの。
やはりランとものベイダオさんがFBで「三陸・雄勝 海の幸トレイルランニングに参加する人この指とまれ!」っていううグループを作ったところ、事務局長の山本さん、最後には石川弘樹さんまで参加して、ああしたい、こうしたい。
大会前からテンションがあがり、大いに盛り上がった。
石巻市といっても石巻湾とは反対側、金華山で有名な牡鹿半島を挟んだ外海に面しているのが、雄勝町。
3/11の大震災では、大津波に町ごと流されてしまった、激甚災害の地だ。
4000人の住人が1000人になってしまったという。
それなのに主催者、地元の方は「被災地だからといって気にしないで走りに来てくれ」というではないか。
豊富な海の幸で、我々を楽しませたいという…
なんていうことだ…
【雄勝まで走っていく】
そんな地元も方の言葉を聞き、なぜか雄勝まで走って行きたくなってしまった。
雄勝町が石巻市であることを知ったことも理由の一つだ。
たった一回だけれど、仙台から石巻まで震災直後に見た光景をぬぐうことができなかったし、一回しか行けてないことになんとも後ろめたく、石巻に行ったことさえ封印してしまった自分。
前回素通りしてしまったところの、その後の姿をしっかり自分の目で見ておくことで、その封印も解くことができる気がした。
土日に定期バスが運行せず、レンタカーか自家用車、チャーターバスでないと行けないと知ったことも動機の一つだ。
「不便なことを、行かない言い訳にするようなところへは、自分の足で行く」
震災以降、神流に走っていくETKを始めてから、妙にそんな思いがぬぐえなくなっている。
【震災直後の石巻行き】
ということで、まずは自分の備忘録として、震災後の石巻行きのことを思い起こしてみる。
断片的な文章だけど、備忘録ということで許してほしい。
3/11から一週間、東京下町の自宅の居間では、津波と火災と原発事故の映像が、買ったばかりの51インチのハイビジョンTVから繰り返し流される。
自衛隊や消防、警察の方が続々と現地入りし、救援活動を行っている様子も映し出される。
それでもまだまだ手が足りず、退役自衛官などにも要請が出始めた。
退役自衛官まで必要ならば・・次に動くべきは誰なのか?
私はと言えば…ボーイスカウト時代からのボランティア経験、サバイバルのテクニック、トレイルを走り回るほどの体力と健康、野宿ができる装備と経験、赤十字救急法の資格と経験もある。
荷物を運べる車もあるし、休日を使うこともできる仕事の状況だ。
私が役に立たないとすれば、いったい誰が役に立つのだろうか?
何としてでも行かねばならない。
ボランティアで手伝いたいという申し出、物資提供や義捐金の動きも盛んになっている。
しかし、ニュースによれば、ボランティアの受け入れ態勢がないため、各県は、まだ来てくれるなということだ。
しかし真剣に探せば道は開くものだ。
千代田プラットフォームスクエアにある、日本ユニバというNPOが、物資の受付を行っており、スタッフを必要としているという。
http://www.ud-web.jp/shinsai_tantou.html
民主党の代議士から、東北道と被災地の交通パスを手に入れているという。
前夜、妻に告げると「行くことに賛成できない」と不満顔。
震災から10日めの3連休の初日、何時でも出られるようにヘルメットと長靴を身につけ、ステップワゴンにガスを満タンに詰め駆け付けた。
大混乱な援助物資集積所。指示系統も大混乱。指示待ちではどうしようもない。少しでも分かる人間をつかまえつかまえ、何時間もかかってなんとか荷物を詰め込むまでたどり着く。
電話が完全には復旧しておらず、現地の様子が殆ど分からないので、基本、出たとこ勝負。
食糧、飲料、防寒具、衣類、トイレットペーパー、おむつ、身の回りの生活用品、必要と想定されるものを 少しづつ詰め込んでいく。
割り当てられたアシスタントドライバーと組んで、物資を必要とされていると思しき東松島市役所に向かい、夕方出発。
赤サイレンの緊急車両の帰還車列もものものしい東北道をひた走り、明け方、大和インターを降り、吉岡街道を東松島に向かう。
東松島のメインストリート、国道45号。右の海側は殆ど津波に洗われて水ひたし。
道路のがれきは左右に寄せられて、車の通行はできている。
ガソリンスタンドが長蛇の列で、緊急車両として東北道でガスを補充し、満タンな我々は少し気が引ける。
東松島に着くと、物資は一通り届いていた。
ありがた迷惑的な対応だったが、でも命にかかわる事態は解消されていることが確認できホッとした。
荷物を降ろさず、先に届けるという選択肢もあったが、人員輸送のニーズがあることを考え、私は荷物を下ろした。
東松島の市役所を訪ねると、特に手や車は必要ないという。
市役所は情報連絡のハブになっているようで、さまざまな張り紙が貼ってある。
荷物を下ろし、石巻に向かう。
石巻は、東松島よりもさらに被害が大きいようだった。汚泥や廃材の堆積も多く、市内が磯臭い。
市内の水は数日前にやっと引き、携帯電話もまさに通じ始めたところだった。
市役所は、避難所も兼ねていて、人が大勢集まっている。
市役所内をあちこち回り、必要とする仕事を探したところ、生活安全の課長さんが、「避難所に市の職員を運ぶ足がない」と困っていた。
相乗りタクシーよろしく、何か所を行き来する。
物資は一通り足りているというが、運んだ職員の方は「朝から食パンとおにぎり程度しか食べていない」という。
避難所では、次に物資を運んで来るチームのために必要なものを聞き込みする。
綿棒、目薬、マスクなどの声が上がった。
混雑した避難所では、空気感染が気になるらしい。
暗くなり、人員輸送の用が済んだため、今回のミッションは終了。
次のチームへの引き継ぎもあるため、遅滞なく東京に戻ることにした。
東京に戻ると、NPOの情報網は引き続き混乱の様子。
翌日の配送は必要がないということで、いったん引き揚げた。
連休明けの日、携帯電話に石巻市の課長さんから電話があった。
また人員を運んでほしいという。
NPO本部に伝えたが、果たして対応できただろうか気になった。
同時に、あれだけのことでも、お役に立てていたのかと思うと、なんとも切ない思いがした。
1週後、次の対策を講じる会議に呼ばれる。TVクルーが出入りし、ある意味得難い経験をしたメンバーが妙にハイテンションになり、ヒーロー気取りで騒いでもいる。
前後して、通行証が無効になり、車で行くことは難しくなったということだった。
そうこうするうちに、そのNPOとも縁遠くなり、被災地に自分が直接行くことはなくなってしまった。