ヴィーガンやベジタリアンをしていると、稀にだけど「植物だって生きているのに…」なんて云われることがある。
「不殺生と言いながら、殺生をしているじゃないか、きれい事を言うな」と云うことらしい。
本人は論理的にやり込めているつもりらしいけど、頭でっかち、屁理屈というやつ。
食どころか、人の思考や文化というものが何ひとつ分かっていなくてまさに情けない。
野菜や麹などの微小な生物を食べて、命を奪って可哀想だとベジタリアンが思っていると思いますか?
可哀想だと思うベジタリアンはフルータリアンになっているだろうし、思わぬならヴィーガンであっても何ら矛盾はない。
要するに頭で考えるのではなく、心と腹、身体で考えるのが古来の人の思考というものなんだ。
実は可哀想だと思いつつ食べても、ベジタリアンであることに矛盾はない。
そもそもVegetalianのvegetという語幹は、ラテン語のvegetus=「生き生きとした、活力のある」という意味だからだ。
つまり生命そのものを採り入れ、本人も生き生きとしているということ。
むしろ、肉(※)がしばしば生命を失った(失われた)後のものであることこそ知ってほしい。
※以下大型のほ乳類の肉
古今東西、肉を食する時は、その生き物の命、生前の魂を喪わずに採り入れられるように、さまざまな文化的・宗教的な手続きを経ていたことに留意すべきだ。
アイヌのイヨマンテや、ムスリムのハラルなどはその一例だし、肉を多勢で取り分け、共に食べることが多いのは、神前共食の名残り。
屠殺や解体に関わる方の中には神々しいまでに自らを律している方もいる。
要するに肉はハレの食、神聖な食と云っても良い。
肉を多く食する文化や民族においても、単なる栄養補給、普段の食の延長でやたらと食べていた訳では決してない。
相手がベジタリアンであれ何であれ、他の価値観や文化、民族を評する時は、自分たちのそれをきちんと理解してからにして欲しいものだ。
以上、台湾素食のランチをいただきながらつらつらと
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